第6話
エッチの兆しは放課後と共に
見覚えのある後ろ姿だった。
小さな人影になっても、記憶にとどめていた駆けるフォームであった。
「だ、誰……だったの?」
コツコツと松葉杖を鳴らせながら近づき、智花が震える声で訊いた。
「……」
治彦は首を横に振った。
グラウンドを後にした、あの時と見た目は変わらない智花に、硬い笑みだけを送る。
「見つかっちゃったね……あたしたち……」
「たぶん……」
「どうしよう、今から?」
開けっ放しにされた扉を通して、軽快なメロディーが流れてきた。
犬山治彦は、県立中城高校に通う学生である。
目立たず。かといって孤立せず。
平凡な学業の成績に、ほどよくまとめたルックスとボディを持つ少年は、クラスメイトである浅井智花と付き合うようになる。
溌溂とした性格で、クラスのアイドル。クラスのマドンナ。
そう男子学生が噂をし、熱い眼差しを送る美少女は、なぜか地味という表現がぴったりな治彦と恋人関係に。
やがてそれは、男女の肉体を交えた深い仲へと。
「陸上部の方には顔を出さないでいいのか?」
「引退の挨拶なら、昨日のうちに片づけたから……それよりも帰りましょ」
付き合い出したころは、クラスメイトの顔色を窺ってのものであった。
しかしそれも、高校生活が残り半年ほどになるころには、誰もが認める公認のカップルへと進化していた。
「山中……」
「やまなか……? 真由美がどうかしたの?」
「ううん、なんでもない」
治彦は口にしかけた言葉をごまかした。
校門を連れ立って後にした二人は、閑散とした公園の入り口に差しかかる。
「ちょっと疲れちゃった。治彦、休憩しよ」
歩き始めて十分くらいだろうか。
不意に智花が、額の汗を拭う仕草をする。
車止めのところで足を止めるなり「ふぅ」と、大げさに息も吐き出した。
「我が校陸上部のエースと呼ばれていたのに、なんだよ。だらしないな」
「仕方ないでしょ。足を傷めたんだから。それに本当のエースはあたしじゃなくて、真由美の方よ。この前の体育祭だってあんなに頑張って……」
「でもさ、結局負けちまっただろう。陸上部の補欠とエースとでは、そもそも走力に違いが……」
「お願い! それ以上は話さないで……」
手の甲で拭ったというのに、揃えられた前髪の下には小さな汗の粒がびっしりと。
その顔のままで、智花の目がにらんでいた。
語気も強めると、治彦に向けられた瞳だけはすっと逸らされた。
「なんだか喉が渇いちまったな。えぇーっと、確かこのあたりに自動販売機が……」
通称はどこの街でも出会えそうな『市民公園』であるが、木々が森のように生い茂り、中はうっそうとしていた。
整備された遊歩道は敷かれているが、治彦が口にした自動販売機はというと……
「ごめん、気を使わせちゃって……あたしはぜんぜん気にしてないの。ううん、そんなことはないよね。でも今は、治彦のことだけを考えていたいの」
「俺のことだけ……?」
言い訳でも、嬉しいセリフだった。
幻のジュース販売機を頭の隅に追いやり、治彦は汗ばんだ己の顔を指さした。
「少し寄り道……いいでしょ?」
様になってきた松葉杖を操り、智花は身体の向きを変えた。
小鳥のさえずりしか聞こえない公園という森の中で、治彦に背を向けた。
そのうえで、上半身をよじるようにさせて振り返る。
潤ませた眼差しに、薄く尖らせた唇をセットにして、こちらを見やった。
「行くしかないじゃん♪ で、どこへ?」
「それは内緒……うふふ……」
ポニーテールに結んだ髪が揺れている。
両脇に挟んだ松葉杖の足と、ゴムのシューズを履かせた本当の足と。
それを交互に進ませながら、膝上10センチのチェック模様柄プリーツスカートも揺らされる。
「ゴク、ゴク……」
缶ジュースにはありつけなかったが、治彦の喉を男臭い唾液が潤してくれる。
メインの遊歩道から外れ、まるで未整備な林道を思わせる通路を、分け入るように進む少女の後ろ姿をただ追いかけていく。
「このあたりなら大丈夫かな」
そんな智花の足と松葉杖が、並んで急に止まった。
背後霊のように貼りつく治彦の足も急ブレーキをかける。
情けなく三角テントを張らせた学生ズボンの股間が、はらりと舞ったチェック地のヒップとキスをする。
「キャッ!」
「ごめん、智花」
木々の濃さが増した空間に飛ぶ、少女の短い悲鳴。
密着し、少女が発する甘い汗の匂いに、胸を焦がした両腕が反射的に伸ばされ……
そして強く抱きしめた。
「もう、びっくりするでしょ」
「それよりも智花……我慢できないよ……」
「うん、わかっているわよ……だって、治彦のアソコ……」
公園の深い緑に誘われれば……?
公衆トイレが見つからず、急場しのぎに踏み入って来たりすれば……?
男と女がこっそりとやらかす性の営みを、偶然を装って覗き見しに誰かが……?
不安なら、腹の中が満腹になるほど溜められている。
それでも治彦は動いた。
背後から抱きしめた腕を一本に託すと、痛いくらいに膨らんだズボンのファスナーを引いた。