第13話
セックスはカウントダウンの中で
心の隅っこで、誰かが溜息を吐いた。
もう片方の隅っこで、誰かが『うふふ』って笑った。
金婚式のキーワードをバネに、それでも美桜は一気に捲し立てていた。
喉の出口でウズウズしていた大切な伝言を、カレー色のご飯粒を飛ばしながら半ば叫んでいた。
「……火事? 焼け死ぬって……?」
「そう、火事よ! このままだと翔くんもわたしも、おじいちゃんとおばあちゃんになって、金婚式をあげられないの」
重ねられていた翔吾の瞳が、不安定に揺らいだ。
美桜はここぞとばかりに、思いつくままの言葉を機関銃のように浴びせた。
「きっと信じてもらえないかもしれないけど。翔くんもわたしも、一度死んじゃってあっちの世界へ行きかけて、サキコっていう変な女の子に助けてもらったの。だからこのまま、もう一度熱い炎に炙られて灰になるなんて、絶対ごめんなの」
弾切れを起こした口の機関銃に、美桜は大きく息継ぎして追加の弾を装填させる。
再び翔吾に向けて続きを浴びせた。
「ホテルの火事? 二人して焼死? 一度死んでる? サキコっていう女の子?」
「わかった? わたしの言ってることって、ちゃんと通じているよね?!」
これはドラマでも、映画でもないのだ。
だから美桜は、真実を知った瞬間に覚醒するヒーローなんて望んでいない。
ヒロインの手を掴み、立ちはだかる試練に堂々と立ち向かうヒーローなんて全然期待していない。
「だから翔くん、早く逃げよ。今ならきっと……たぶん間に合うと思うから」
美桜はグラつく腰を立たせて、席を離れた。
愛し合う人と逃げ伸びるため。
もしも立ちはだかる試練があるなら、慌てて背中を向けて、非常口から二人して卑怯な逃避行をしてみせる覚悟で。
「えらいぞ、美桜!」
「え、偉いの?」
「そうさ、さすがは50年後に金婚式をあげる俺の嫁ってやつだ」
翔吾もテーブルをドンと叩いて席を立った。
果たして理解してもらえたのか?
的外れな褒め言葉を美桜に投げかけた翔吾は、力強く腕を伸ばした。
『俺について来い』とばかりに、美桜の手首を掴んだ。
「あっ、ちょっと待ってよ。着替えないと」
「着替えなんて悠長なことを言ってたら、俺たちは焼け死んじまうだろ。バスタオル一枚あれば、俺は何もいらない」
運命のターニングポイントを知らせたのは美桜である。
だからタオルを腰に巻いただけの翔吾を見ても、説得の言葉を見つけられない。
「そうね、翔くん。今は恰好を気にしてる場合じゃないよね」
そして美桜も同意していた。
脇に差し込んだバスタオルをきつく締め直すと、ベッドの傍に置いてあった二人分の服をかき集め、女モノのバッグを抱えた。
「行くぞ。美桜」
「うん、翔くん」
頼もしくて男らしい声に、美桜はうなずいた。
運命のカウントを20分ばかり残したまま、バスタオルだけに身を包ませた二人は、客室ドアへと向かった。
「あ、開けるぞ。美桜」
「うん、開けて……翔くん」
訊かれて、返事をして、翔吾がドアノブを握った。
美桜は愛する人の背中に顔をひっつけた。
『結ばれなくていいの? 美桜ってバージンのままだよね』
サキコからの忠告が、今頃になって鼓膜に響いてくる。
美桜はそれを振り切るように、翔吾の背中を顔面で押した。
「わぁっ!」
ドアを開けてすぐに、翔吾の足が止まった。
一歩だけ踏み出して、コバンザメのように身体を預けた美桜も半歩分だけ足を進ませて、そこで感じた。
熱い気流の渦を。
『なにやってんだ、そんな恰好で』とか、『キャァ! 服くらい着なさいよ』とか、『いっそのことバスタオルも脱いじまえ』とか。
何事もない平穏なホテルの通路で、そんな俗っぽいセリフを投げられた方が、どんなに幸せか。
「撤退よ、翔くん!」
美桜は顔を離すと叫んでいた。
背後から翔吾の腰に両腕をしがみつかせ、部屋の中へと後退させていく。
それと同時に、客室ドアが乱暴に閉じられる。
「はあ、はぁ……美桜の言った通りになっちまった」
翔吾は全身から汗を吹き出させながら、美桜を眺めた。
恨めしそうに、ほぼ完食したカレー皿を見やった。
「そんな……まだ時間が……やっぱりわたしが……」
一方の美桜は、呆然としたまま立ち竦んでいた。
閉じられたばかりのドアから白い煙が忍び込む様を、焦点の合わない目で見つめていた。
「消防に連絡だ!」
翔吾は置き忘れたままになっていたスマホを掴んだ。
「どうしてだよ?! 電源が落ちてるぞ! クソッ!」
その翔吾の手から、暗い闇を映す液晶端末が落下する。
リーン♪ リーン♪ リーン♪
そして、その光景を覗いていたかのように、室内に据え置きされた電話が鳴った。
「わ、わたしが……」
反射的に駆け寄ろうとする翔吾を制して、美桜は受話器に腕を伸ばした。
4回……5回……6回……
鳴り響くコール音を耳に拾わせながら、震える指先にどうにか握らせる。
「美桜、急げ」
翔吾が顔をクイクイとさせて急かせてくる。
呼応するように、流れ込む煙がその濃度を増した。
「はい……」
『うふふっ、もうすぐ二人して丸焦げね。せっかくあたしが教えてあげたのに……残り1分ってとこかしら』
美桜の片耳に宛がわれたまま、電話はプツンと切れた。
「いたずら電話か、こんな時に……クソ、クソォッ!」
その声は、翔吾の耳にも届いたのだろう。
処理しようもない悔しさをぶつけるように、鍛えられた足が壁を蹴った。
(残り1分ってことは、残り60秒ってこと。ううん、もう40秒くらいかも?!)
もはや、完全にジ・エンドである。
けれども美桜は、翔吾と一緒になって壁に当たる気にはなれなかった。
「翔くん、裸になって! オチ〇チンを早く!」
喉が痛くて、涙を溢れさせられて、灰色をした煙の中で、美桜は動いていた。
ベッドへ上がる時など残されていない。
受話器を落としたその場所で、身体に巻きつけたバスタオルを引き剥がした。
「おい、こんな時になにやってんだ?」
穢れを知らない白い裸体が露わにされ、呆気にとられる翔吾もまた腰に巻いたタオルを外した。
「美桜とセックスして。翔くん、ゴホッ、ゴホッ……お願い……」
残り20秒弱。
猛威を振るう煙の背後から、灼熱の炎が迫っていた。
美桜は咳込んでいた。
ボロボロと涙も流しながら、床の上に跪いていた。
犬のように四つん這いのポーズを取ると、腰をくねらせた。
オス犬を誘うメス犬のように、赤く艶やかな恥肉を恥ずかしげもなく晒した。
「はははっ、さすがは俺の彼女だ。いや、俺の愛する嫁だ。美桜……美桜……」
煙に虐められていたまぶたから、純粋な涙がこぼれていた。
残り5秒。
翔吾の両手が、揺らされる美桜の腰を掴んだ。
熱い息遣いを背中に感じ、硬い切っ先がスリットの縁に宛がわれて……
「翔くん……愛してる……」
ドンッ! ボンッ!
荒れ狂う炎の海の中、美桜は愛する人の気配を見失った。