第25話
思いがけない再会
8月22日 金曜日 午後9時 水上千里
「失礼します。松山先生、おられますか? 水上です」
私はナース服姿で、松山先生の診察室を訪れた。
服装は、最後まで迷っていた。
制服姿で行くべきか?
勤務時間がかなり前に終わっているので、ラフな私服にすべきか?
ツマラナイ問題に思うかもしれないけど、この前の松山先生の口ぶりは、私にただならぬ警戒感を与えていた。
そして私が選んだのは制服の方だった。
私の心は、医師としての松山先生を信じていたのかもしれない。
時刻は午後9時過ぎ。
本来ならアパートの自分の部屋で、缶ビール片手にテレビドラマでも見ている時間。
でも今夜は、私にとって大変なことが起きそうな気がする。
気を引き締めても無理なものはあるけど、やらないよりはマシ。
私は大きく息を吸い込むと、診察室の奥にある先生のデスクに向かった。
「約束通りに来てくれましたね。まあ、そこに座りなさい」
先生は、患者用の丸椅子に私を促した。
こうしてみると、夜の診察室って不気味ね。
天井の明りは全部落ちているし、室内を薄明かりに包んでいるのは、ドアの上に設置された非常灯の光。
先生の顔がデスクのライトに照らされて、まるで……やっぱり失礼だからやめておく。
「コーヒーでも飲みますか?」
「いえ、結構です。それより……あの、大切な話というのは?」
「ああ、そのことね」
先生は素っ気なくそう言うと、デスクの引き出しから数枚の写真を取り出し、トランプのカードのように並べた。
「水上さんは、こういうのに興味はありますか?」
「えっ……?!」
デスクの光が反射している。
目を細めて……?
「こ、これって……先生! 一体なんのまねです?! こんな卑猥な写真を並べて……こう言うのって、セクハラじゃないですか?!」
目に飛び込んできたのは、淫らな女性の写真。
ビルの屋上でスカートを捲り上げている人。
交差点の真ん中で、胸を曝け出している人。
大勢の男達の前で、自分を慰めている人。
それなのにこの女の人達って、なぜか恍惚の笑みを浮かべている。
まさかこの先生。こんな恥ずかしい写真を見せるために、私を呼んだっていうの?
冗談じゃない。私を馬鹿にしないでよ。
「どうです水上さん。やってみる気はないですか?」
「いい加減にして下さいっ! 私は大切な話があるっていうから、ここに来たんです。それが……こんなふざけたことって……私、仕事と遊びの区別のつかない人って大嫌いなんです。申し訳ありませんが、失礼させてもらいます!」
あ~ぁ。お手当になんか釣られて、こんな病院に来るんじゃなかった。
やっぱりこの先生、初めて会ったときから目付きが妖しかったけど、まさかこんな趣味があったなんて……
「待ちなさい。話はまだ終わっていませんよ。この前あなたに合わせたい人がいると言ったのを、もう、お忘れですか? クックックックッ……この人の顔を見れば、きっと水上さんの気持ちも動くと思いますよ。さあ、座って、座って」
先生は両手で私を宥めると、コーヒーをすすった。
こんな屈辱を味わったのは、何年ぶりかしら。
もう少しで、何もかも忘れるところだった。
でもここで頭に血が昇ったら、私の負けよね。
我慢、我慢よ、千里。
「さあ、入ってきなさい。懐かしい人が待っていますよ」
先生は、二ヤリと意地悪そうな笑みを浮かべると、診察室に隣接する処置室に向かって声を掛けた。
ガチャッ……
ドアノブを回す小さな音が反響する中、大柄な男性が私の前に姿を現した。
天井の照明がほとんど落とされ、非常灯の明かりにボーっと照らし出された、その顔は……?!
「お兄ちゃん……?!」
先生の言った通り懐かしい顔。
私のたったひとりの兄、良一兄さん。
でも、どうしてここにお兄ちゃんが……?
私のお兄ちゃんは……お兄ちゃんは……?
「そう、君のお兄さんは一度死んだ。いや、死んだことになっている」
私は兄の元へ歩み寄ろうとした。
でも足が……足が震えて……立ち上がれない?!
私はもう一度叫んだ。(お兄ちゃん)って……
でも、私の耳にも私の声は聞こえなかった。
喉も……震えている。
私は首だけ僅かに動かして、兄の姿を見つめた。
動かない唇で自分自身につぶやいていた。
「夢じゃないよね……夢なら覚めないで……」
身体が強張った私を尻目に、先生は椅子から立ち上がる。
そして兄の肩に手を置いた。
どうしたの、お兄ちゃん?
私は、ここにいるんだよ。
私だよ、お兄ちゃんの妹の千里だよ。
お兄ちゃん、何か言ってよ。
私の名前を呼んでよ。
「無駄ですよ。水上、いいえ千里さん。君のお兄さんは、確かに生きている。しかし、生きているだけなんですよ。君がどんなに話しかけようが、手を握ろうが、ここに立っているのは、昔の良一君ではない。彼は、私達の言うことだけを忠実に聞く、ロボットみたいな物なんですよ」
嘘! お兄ちゃんが私のことを忘れるなんて、そんなの嘘に決まっている。
あの優しかったお兄ちゃんが、私のことを覚えていないなんて……そんな……そんなことって……
「千里さんも覚えているでしょう。今から3年前のことを……」
3年前……?!
そう、今でもはっきりと覚えている。
私はあの当時、念願のナースになれて充実した毎日を送っていた。
慣れない環境に意地悪な先輩もいたけど、夢が叶ったのだから頑張らなければ罰が当たると思って、一生懸命がんばっていた。
早く一人前のナースになるんだ。
そして私はお兄ちゃんと……
そんなある夏の日の午後……
あの日も今日と同じで、残暑の厳しい日だった。
突然、1本の電話が私宛てに掛ってきた。
母からだった。
その声は、か細くて、嗚咽まじりで聞き取りにくかった。
それでも、話の重大さは私にもすぐに理解出来た。
そして茫然とした。
お兄ちゃんが……死んだ……
兄は苦労して医科大学を卒業した後、地元の総合病院で研修医として働いていた。
その兄が、勤めていた病院の屋上から突然、身を投げた。
私と母は、兄が待つ病院へ急いだ。
なぜ兄が死を選んだのか、理由が分からない。
母も同じだった。
そんな茫然自失の私達を出迎えてくれたのは、兄の同僚医師と上司である病院の外科部長だった。
兄の上司である先生は、淡々と経過報告をした後、私達に意外なことを告げた。
「水上良一君は、当病院において献体を望んでいた」
つまり死後の自分の身体は医療技術確保のために、人体解剖に供するということ。
更に葬儀その他のことはこの病院主導で執り行い、結局、兄にも合わせてもらえなかった。
諦めがつかず抗議する私に突き付けられたのは、兄直筆の署名がある誓約書だった。
確かに兄の字だった。
私と母は、二人きりで兄の遺影に手を合わせて兄を見送った。
寂しくて、納得がいかない葬儀だった。
その死んだはずの兄が、私の目の前に立っている。