第10話 手と手を取り合って
ここからは、視力1.5が自慢でお姉ちゃんな遥香の出番だった。
わたしは片手で孝太の手を掴むと、顔だけ突き出して長い廊下を探った。
誰もいない。物音ひとつしない。唯一見下ろしている鬼の面を除けば、気配そのものがない。
それを目で感じて、耳で聞きとって、繋いだ手を伝って孝太に教えてあげて、わたし達は部屋を後にした。
大丈夫よ、遥香。孝ちゃんの立てた作戦なんだから、絶対に成功するから。
ううん、成功させてみせるから!
わたしと孝太は長い廊下を越えて、階段を下りた。
背中に孝太の息遣いを感じながら、慎重な足取りで十字路になった通路を玄関に向かって進んだ。
あと5メートル……あと3メートル……1メートル……
引き戸になった分厚いガラスを通して、鈍い光の帯がわたし達を手招きしている。
その先に拡がる自由な空間をアピールするみたいに。
ギギーッ……!
あと一歩のところで床が鳴った。
脱走者を知らせようと、耳障りな音を屋敷の奥にまでコダマさせる。
「お姉ちゃん、さぁ早く!」
振り返ろうとするわたしの手を、孝太が引いた。
手探りで引き戸に手を掛けると、わたしを先に押し出して孝太が後に続いた。
眩しいくらいに明るい世界がわたしと孝太を包み込む中、大急ぎで深呼吸を繰り返して。
「孝ちゃん、走るわよ!」
わたしは後ろを振り返らずに、小声で叫んだ。
背中から覆い被さろうとする屋敷の影から逃れようと、手を繋いだまま全力で駆けた。
先端の尖った鋼鉄製の門を開き、人通りのない道路へと脱出する。
後はなるべく人目を避けてバス停に向かうだけ。
この1本道を真っ直ぐに300メートルほど歩けば……
「どうしたの、お姉ちゃん?」
その時になってわたしは、自分の服装に目を落としていた。
くり抜かれた袖なしTシャツから丸い膨らみを覗かせて、腰骨の辺りまで切り上がったホットパンツからお尻のお肉まで曝け出していることに。
「う、ううん……なんでもないよ。さぁ、行こう、孝ちゃん」
誰も見ていないのに。孝太だって知らないことなのに。
ほっぺたが熱くなって、わたしはどこかに置き忘れていた羞恥心という単語を今更に思い出していた。
「お姉ちゃん、何時かな?」
「あ、えっと……2時20分。あと10分でバスが出ちゃうわ。急ぎましょ」
はるか前方のロータリーに、駅へ向かうバスが停車していた。
ここが終点で、ひとりの男性客がバスから降りてくるのが見えた。
この折り返しのバスに乗って、わたしと孝太は新しい生活をスタートさせるんだ。
きっと茨の道だけど、こんな悪魔の棲む屋敷で監禁されるなんて真っ平ごめんだから。
観光客なのかな?
大きなカバンを抱えたその人は、わき目も振らずにこっちへ近付いてくる。
わたしはポケットから財布を取り出すと残金を確認する。
帰りの交通費くらいなんとかなりそうってひと安心して、大きくなってきたバスを見つめた。
それよりも、もっと近寄ってきたガッシリとした体格の男の人にも。
こんな田舎の町に場違いな気がする。
パンパンに膨らんだ旅行カバンをブラ下げて、にこやかな顔をわたし達に向けているけど。
だけどこの人からは……?!
「お嬢様方、どこへおいでで? へへへへっ」
浅黒い肌をしたその男の人は、喉を鳴らして笑った。
その瞬間わたしだって身構えたのに、まるで格闘技をしている人みたいに素早く腕を掴まれていた。
二の腕に指を喰い込ませながら強引に身体の向きを反転させる。
「旦那さまから連絡は受けておりましたが。ダメじゃないですか、こんな所を散歩なさったりしては。ふふふふっ」
「い、痛いッ! 放してぇっ……お願いだから、放してよっ!」
「お姉ちゃん? あ、あぁ……どうしたの? この人、誰なの?」
孝太がわたしの声に反応して、首を右に曲げで左にも曲げた。
わたしとは違う気配を探して、匂いを感じて、男の人の腕を振り解こうとする。
「お坊っちゃま。あまりおいたが過ぎますと、きつい折檻が待っておりますよ」
「や、やだっ! 放せ……この放せよっ!」
「孝ちゃん! お願い、孝ちゃんには何もしないで!」
孝太は男の人に首根っこを押さえ付けられていた。
わたしの腕の肉を千切れる勢いで掴んだまま。
わたしと孝太のカバンが、投げ捨てられるように道端に転がって、それを目にして実感した。
脱出は失敗したって。
わたしと孝太の地獄からの逃走劇は、新たに湧いてきた一人の悪魔によって完全に阻止されたって。
「さあさ、お嬢様方。旦那様と奥様が心配してお待ちになっておりますよ」
男の慇懃な物言いに促されて、わたしと孝太は屋敷へと連行される。
その背中では、駅へと向かうバスのエンジン音が次第に遠ざかって消えた。