【第3話】
運命の出会い
あの衝撃的な夜から卓造の様子が変わった。
周囲は気付いていないようだが、チカという少女の痴態が目に焼きついて離れなくなったのである。
それ以降も卓造は、会社帰りにわざわざ時間をつぶしまで、深夜のあの時間、あの場所で待ち続けたみたものの、結局出会うことはなかった。
しかし、出会えなければ忘れられるといった甘いものではない。
かえって『もう一度あの少女を』の想いは更に強まり、次第に仕事にも身が入らなくなっていたのだ。
そして、1カ月が過ぎた頃……
「佐伯君、ちょっと!」
卓造は、課長の山下に呼ばれた。
慌てて席を離れると、棒グラフの記されたホワイトボードを睨むその男の元へ向かった。
(どうせまた、嫌みを言うつもりだろう)
ここ最近の恒例行事になりつつある課長の呼びつけに、歩きながら溜息を吐いてみせる。
もちろん、胸の中で。
「今日は、はっきりと言わせてもらいます。佐伯君、この成績を見て恥ずかしいとは、思わないですか? 営業畑20年のアナタが、どうして我が営業3課で最下位の成績なのです。今年入社したばかりの鈴木君にまで抜かされて……」
今年42になる卓造より5才は若い新任課長は、それでも先輩を敬うつもりなのか、多少は配慮した言葉遣いだった。
しかし、刺のある本音をづけづけとぶつけてくるのには変わらない。
まあ、営業3課15名の中で断トツの最下位では、申し開きひとつできないのだが。
「アナタも知っていると思いますが、我が社は現在、非常に厳しい状況にあります。このままだと、佐伯先輩……いえ、佐伯君。アナタの身の振り方も考えなければならなくなりますよ」
「えっ! いえ……それは困ります」
「そうですよね。ですからお願いします。どうか、私を悩ませるようなことをしないで下さい」
『どうせ、いつもの』と、高を括っていた卓造の予感は、ものの見事に外れていた。
長年の付き合いから、その男の目を見れば、言葉以上に自分の置かれている状況が危ういことは察しがつく。
(だからいって、どうしろというんだ。でもこのままだと……リストラ?!)
肩をすくめる卓造に向かって、チラチラと覗き見ては囁き合う冷たい視線が浴びせられる。
だが、それにも気付かないほど、卓造は追い詰められていた。
(今更飛び込みで名刺を配ったところで、どうになる? だからといって、俺が握っている顧客だけでは……)
卓造は当てもなく繁華街を歩いていた。いや、彷徨っていたという方がしっくりとくる。
今から成績を挽回するとすれば、おそらくは2千万規模の受注を、それも短期で獲得しないと間に合わないだろう。
けれども、そんな気前のいい仕事を世話する者など、どう考えても思い浮かばない。
それもそのはずである。
元来、気弱でここぞという時の押しが弱い卓造には、両手の指があれば足りるほどの得意先しか持ち合わせていないのだから。
日が西に傾いてきた。
どこをどう歩いてきたかさえ分からないまま、閑静な住宅街に迷い込んでいた。
並び建つ家はどれも、威圧感のある門構えが象徴の豪邸と称されるものばかりである。
6畳一間と、お情け程度のキッチンが全てのオンボロアパートに暮らす卓造にとって、ここは踏み入れてはならない別世界である。
(こいつら、いったいいくら溜め込んでるんだ? いっそのこと有閑マダムを相手に、学習ノートと鉛筆の飛び込みでもするか? 消しゴムでもオマケにチラつかせて)
余りにものバカらしい策を思いついた途端、卓造は苦笑いを浮かべた。
そして、ツマラナイ誘惑を断ち切ろうと足を速めかけた時。
「見つけた! 間違いない、あの子だっ!」
思わず卓造は声をあげた。
チカと呼ばれ、メス犬として四つん這いで歩かされていて少女が、十字路から突然姿を現したのだ。
ちらっと横顔を覗かせた後、卓造の前を歩き始めたのである。
ただし2足歩行で、この街の住人なら誰でも知っている超有名私立高校のセーラー服を身に纏ってはいるが。
その少女は、まるでバレリーナのようにしなやかな足取りで歩いていた。
後ろを振り返ることもなく、卓造にも気付いていない風である。
(家に帰るつもりか? だったら、後をつけてやる)
尾行して、どうするつもりなのか?
答えは見つかっていない。
その少女を目にした途端、心臓が鷲掴みされたように鼓動を激しく打ち鳴らし、その他の思考回路を遮断していたのである。
男の本能に突き動かされている。これが正直なところだろう。
「どこのお屋敷に住んでいるんだ? あれか? それとも、こっちか?」
卓造の素人丸出しの探偵ごっこにも、少女は反応しない。
アスファルトに引かれた白線ラインに添って、真っ直ぐに歩き続けている。
そして、閑静な高級住宅地の更に奥まった地区にまで来た頃、少女のバレリーナのような足取りが急に乱れ始めた。
要するに、歩様が重くなったのである。
(ん、どうしたっていうんだ? 様子が……)
卓造がその異変に気付いた時には、少女の足は完全に停止していた。
明治時代を彷彿させる白亜の洋館を前にして、身構えるように立ち尽くしているのである。
やがて少女の顔が次第に上向き、館の2階。半円を描くように突き出たバルコニー付きの一室へと視線を走らせる。
夕闇を写し込む窓ガラスへと……
「なっ?! アイツは? あの男は確か……」
そう、忘れられるわけがない。
少女が見上げ、卓造の視線が追った先には、冷たい瞳を湛えたチカの飼い主が立っていたのだ。
こちらを見下ろすようにして……